沼津港物語
沼津には、伊豆半島の付け根にある沼津港を中心に、小さな港がたくさんある。
駿河湾のもっとも奥に位置する数々の入り江は、今もハッとするような表情を湛えて、多くの人を惹きつけてやまない。
沼津港 活気溢れる市場

朝、5時すぎ。威勢のいいセリ声が場内に飛び交い、仲買人たちがせわしげに動き回っていた。昔から魚河岸というと独特な賑わいを持っているが、一般には近寄りにくい場所でもある。しかし近年、“産業観光”の静かなブームもあってか、魚市場が一般開放される例が増えてきた。
ここ沼津魚市場も一般見学ができる施設で2007年にオープン。INO(イーノ)という名称はギリシャ神話に登場する“海の女神”を意味する。最新の市場機能に加えて、見学者通路、展望デッキ、レストランといった観光的な要素をあわせ持つ、全国でも類を見ない複合施設である。日・祝日にはJR沼津駅から無料のシャトルバスも運行している。
もともと沼津の魚河岸は、狩野川の永代橋付近の小さな船だまりから始まった。1933年に現在の魚市場がある内港が完成。当時は現在のJR沼津駅まで通称「蛇松線」と呼ばれる貨物線が走っており、水揚げされた魚介類が運ばれていた。しかし1974年に廃線になり、港に軌道の一部が残るばかりで、軌道跡は遊歩道となっている。
古来、港は人や物が行き交う拠点として賑わってきた。しかし、近年は物流など経済活動の場としての色合いが濃くなり、人々が近寄り難い空間になっている港も少なくない。そうした港にかつての賑わいを取り戻そうと、人が集い、憩い、交流する拠点作りとして国土交通省が「みなとオアシス」の認定制度を実施している。実は、沼津港も、その「みなとオアシス」の認定を受けているのだ。
さきの水産複合施設「INO」や大型展望水門「びゅうお」、マーケットモール「沼津みなと新鮮館」といった施設、さらには周辺の飲食街が沼津港の回遊性を高めている。年間の観光客90万人を超えるという数字が沼津港の賑わい復活を雄弁に物語っている。
少量多品種!駿河湾の海の幸

沼津魚市場では、よそではめったにお目にかかれない少々風変わりな魚介がセリにかけられる。ゲホウやサビタチ、メギス、ヒウチタイ、手長エビ、ガシャエビといった深海に棲む魚介だ。静岡の日本一といえば富士山だが、駿河湾は水深2500mに達する日本一深い湾である。
「駿河湾は、その水深の深さもあって魚種は800〜1000種類と世界でも1、2を誇ります。それに富士、伊豆、箱根から集まったミネラルたっぷりの狩野川の水が注ぎ込んでおり、漁場としては実に豊かなのです」と沼津魚仲買商協同組合の後藤義男理事長が話す。
その結果、沼津魚市場にはさまざまな魚種が水揚げされている。いわば“少量多品種”が沼津魚市場の一番の特徴であり売りであるという。さきの深海魚も魚種の豊富さを物語る。もともと深海のタカアシガニを獲るためのトロール網にかかっていた“雑魚”で、市場には出されず地元だけで食べられていた。だが、見た目には少々不気味な“雑魚”が実は美味だということがだんだんと広まり、少量ではあるが、市場に出回るようになったというわけだ。
沼津港の飲食街や直売所では、そうした駿河湾の珍しい魚を味わったり、買ったりできる。まさに「ここ沼津港に来なければ味わえない駿河湾の幸」(後藤理事長)なのである。
若山牧水記念館にて

「若山牧水記念館」は、港からほど近い千本郷林、文学の道沿いに佇む和風邸宅のような造りの記念館である。沼津牧水会が中心となった建設発起人会が市内外から募った寄付金を基に沼津市により建設され、昭和62年11月に開館された。
事務局長の大澤敏夫さんは「私は小学校3年の時、沼津に転校してきました。学校の購買で買った国語のノートに、牧水の歌碑の写真や“幾山河こえさりゆかば…”の歌が掲載されていましてね。それが思えば牧水との出会いです」と微笑む。記念館では牧水の生涯の軌跡と、全仕事を見られるほか、生前愛用していた机なども公開されている。
牧水はまた、歌人としてだけではなく、直筆で書いた短冊や掛け軸を頒布会制度で販売したり、沼津に来てから総合的な詩歌雑誌を出版するなど、多彩な顔を持っていた。「旅人っていうと、自由人みたいに聞こえるけれど、本当は準備万端に旅支度をしていく人だったようですね。だからこそ、突然ルートを変えても困らなかったんです」。大澤さんの話を聞き展示物を見ている内に、孤独を愛し、繊細でいつも遠くを見ているような歌人若山牧水だけでなく、男気に溢れ、やりたいことを自分の手で切り拓く、人間若山牧水の姿が浮んできた。
若山牧水と千本松原

「松原ならば私は沼津の千本松原をとる。公園になってゐるあたりはつまらないが、其處(そこ)を少し離れて西へ入ると実にいい松原となってゐる。樹がみな古く、かつ磯馴松※(そなれまつ)と見えぬ真直ぐな幹を持ち、一樣に茂つた三四町の廣さを保ってずっと西三里あまり打ち續(つづ)いて田子の浦に終つてゐるのである。」――これは若山牧水の随筆『樹木とその葉』(大正14年刊)でつづった「駿河湾一帯の風光」の一節である。
酒と旅の歌人として知られる牧水だが、何より自然を愛した。山河を歩き、水筒に詰めた酒を飲み、自然と対話しようとした歌人ではなかっただろうか。
大正9年に沼津に移り住んだ牧水の終焉の地は、いまの千本松原公園にほど近い。沼津時代の牧水は、沼津や伊豆、富士山麓を丹念に歩き、数多くの紀行文や短歌を残した。
千本松原は、狩野川河口から富士市の田子の浦まで続く10kmの松原だ。もともと潮風から田畑を守る森として農民が植えたと伝えられる。だが戦国時代、戦略的な理由で伐採されてしまう。戦乱で荒れ果て、潮風による塩害に苦しむ農民の姿を見た旅の僧・長円(のちに千本山乗運寺の増誉上人となる)が念仏を唱えながら松を植え続け、松林を復活させた故事が残る。その後、“枝一本切るものは腕一本切る”という厳しいご法度によって松原は守られてきた。 時代は移り、大正15年に静岡県による用材目的の伐採計画が持ち上がる。これに反対し旗振り役をしたのが牧水だ。新聞で伐採反対のキャンペーンを張り、演説もした。そうした運動のおかげもあってか伐採計画は中止になった。昭和3年、43歳で他界した牧水は、増誉上人と同じ乗運寺に家族とともに眠っている。法名は「古松院仙誉牧水居士」である。
<松原の茂みゆ見れば松が枝に木がくり見えて高き富士が嶺>
と、詠っている。
※磯馴松:強い潮風のために樹木の幹や枝が磯になびくように傾いて生えている松のこと。
- 【写真1〜3】
- 千本松を植えて農民たちを守ったのは戦国時代の旅の僧。時を超え、大正時代にこの松を守った牧水は、今この僧のいた乗運寺に眠っている。
沼津御用邸記念公園

見上げるような松林を囲むように長い石塀が続き、重厚な門の向こうの松林のなかに瓦葺きの木造建築群が見え隠れする。旧沼津御用邸だ。明治26年、病弱だった大正天皇(当時は皇太子)の静養のために、島郷御料林のなかに造営され、昭和44年に廃止されるまでの間、皇族の別邸(別荘)として利用された。温暖で、白砂青松が広がり、富士山を望める風光明媚な立地が造営のひとつの理由である。すぐ近くには大山巌や西郷従道といった明治の将軍たちの別荘があり、この御用邸が時代の真ん中にあったことを物語る。
ざっと東京ドーム3個分の敷地に本邸をはじめとして西附属邸、東附属邸と増築されていったが、昭和20年7月17日の沼津大空襲で本邸を焼失。本邸の御殿をはじめ、当時の御用邸では初めての洋館建築は、いまは写真でしか見ることができない。
昭和44年、残った建物の老朽化もあって沼津市に移管。もとの資材をできるだけ再利用して原形を復元し、現在、一般公開されている。数ある旧御用邸のなかでも、これほど大規模な建築群はほかにない。明治、大正、昭和という激動の時代の皇室の暮らしを垣間見ることのできる貴重な歴史遺産ともいえる。
学習院遊泳場と島郷海岸

沼津御用邸記念公園に隣接して「学習院遊泳場」がある。学習院の臨海学校の合宿所だ。島郷海岸に面した広い敷地には松やクスノキの古木がそびえ、木立に溶け込むようにぽつんぽつんと寄せ棟造りの木造家屋が建っている。その古色蒼然としたたたずまいを眺めていると、遠い昔にタイムスリップしたような錯覚を覚える。それもそのはずで、建物は大正12年築である。80数年の風雪に耐え、いまだに現役だ。
もともと沼津御用邸の一部だったが、皇族や華族のための学習院教育施設となった。この施設の開設を進言したのは乃木希典(まれすけ)である。明治37年の日露戦争で名をはせ、退役後の明治40年に学習院の10代院長となった人物で、昭和天皇の教育係としても知られる。その教育方針を一言でいえば“武士道精神”を教えこむことで、剣道や柔道、馬術などを授業に取り入れた。遊泳(水練)も、その一環であったという。
時代は移っても、遊泳場には学習院の生徒たちが夏合宿にやってくる。クーラーなどない畳敷きの大部屋に寝泊りし、島郷の海で遠泳する光景を見ることができる。
- 【写真1〜5】
- 大正時代の建築というから驚きだが、質素でもきちんと手入れをして使われているので、ここまで健在なのだろう。人物は学習院の斉藤重夫さん。この遊泳場を守っている人だ。海岸までの砂地が、箒できれいに掃かれてあった。
沼津と太宰治

「三島で駿豆鉄道に乗り換え、伊豆長岡で下車して、それからバスで十五分くらいで降りてから山のほうに向かって、ゆるやかな坂道を登って行くと、小さな部落があって、その部落のはずれに支那ふうの、ちょっとこった山荘があった」――昭和22年に発表された太宰治の代表作『斜陽』の一節である。
戦後の没落貴族を描き"斜陽族"という言葉を生んだ、この社会小説は、じつは沼津の三津で寄稿された。昭和22年、太宰を師と仰ぐ田中英光(代表作『オリンポスの果実』)が疎開していた三津にやってきて、安田屋旅館に滞在し『斜陽』の1、2章を書いている。安田屋旅館は現役で『斜陽』の文学碑が建っている。
太宰と沼津の関係はもっと古い。昭和7年、それまでかかわっていた左翼活動に決別し沼津にやってきた太宰は1ヶ月ほど滞在して『思い出』を執筆、翌8年に初めて太宰治というペンネームで世に出した。沼津は"太宰治"が生まれた地ともいえる。沼津志下にある坂部酒店の当時の主人坂部啓次郎氏の弟・武郎氏は太宰と気の合う仲で、二人してよく大酒を飲んでいたという。この武郎氏のことは『老ハイデルベルヒ』(昭和15年発表)に「高部佐吉」として登場する。太宰治の人生の節目に、なぜか沼津がある。



















